年上の方から戦争の時の話を聞きました。東京で機関銃の弾を作っていたそうです。空襲の後工場のあった辺りに見に行ったら橋の橋脚に焼け死んだ人の遺体がいっぱい引っかかっていたそうです。この空襲の時に看護師をしていたお姉さんが亡くなってしまったそうです。戦争が終わってからは金属加工の仕事を続けてピストルの形をしたライターを作ったり、がま口の口金を作ったりしていたそうです。「もうなんでも仕事したのよ。私くらい仕事した人いないわね。」と笑う90歳です。私もこのくらい元気でいたいです。

Nさん

田舎でお友達だったNさんが旅行のついでに寄ってくれました。夕方電話が来て近くまで来ているから会いに行くとの話。びっくりですね。お友達が車で送ってくれたそうです。私も10年若ければ一人で色んなとこ旅行できたのですが。膝が悪くなってめっきり出不精になってしまいました。3年前に思い切って手術しましたが遅すぎて損したかもしれません。

かぜ

かぜをこじらせて3週間ばかり不調でした。まだ食欲がわきませんが少し元気が出てきました。切れにくい痰がからんでいやな咳がでます。おかげで睡眠不足です。今日は1週間ぶりにデイサービスに行ってきます。実は迎えに来てくださったときに寝ていて出そびれてしまいました。

調子が悪いと味覚も変わりますね。ふだん大好きなアンパンがぱさぱさして食べにくくて困ります。こんな時はおかゆと梅干が一番です。みなさんも季節外れの風邪にやられないようご自愛ください。

尼崎の夜間空襲

尼崎の郷土史資料によると夜間空襲があったのは3/13-14と7/19、8/5、8/9である。花火を連想したのが夏とすると7-8月のどれかのことであろう。直接爆撃をまぬかれた実家とは異なってじかに目にする戦争の惨禍であったはずである。

尼崎の空襲

尼崎に学徒動員に行っていたときに空襲がありました。山に逃げてみていると焼夷弾の光が空から花火のようにばらばらと落ちてきます。不謹慎だけどきれいだなって思いました。ずっと忘れていましたが、姉のお見舞いに行くとき尼崎を通ったので思い出しました。仲の良かった姉も今はいません。

百人一首

百人一首をしました。とれるひとはどんどんとりますね。私は耳が悪いのと緑内障で視野が狭いので8枚しかとれませんでした。子供が百人一首のかるたを持ってきてくれました。「むすめふさほせ」を覚えろといいます。一字でわかるからだそうです。かるたの読み札の字が小さくて読むのが苦労です。まあぼちぼちおぼえますか。上のにいちゃんが小さいときにたどたどしく読んでいたのを思い出します。

学徒動員

戦争中には学徒動員に行きました。学徒動員というのは戦争で男の人が兵隊にとられるので軍需工場の人が足らなくなって学生を働かせたのです。満員の汽車に載せられて尼崎の工場に送られました。履物がなくて住職だった父が自転車のタイヤを切ってサンダルをつくってくれました。切ったタイヤにヘチマの種を載せてまわりを畳を縫う糸で縫って作りました。汽車にいくと入り口がぎゅうぎゅう詰めで乗れません。中のほうはまだ開いているのに詰めてくれないのです。私はちびなので窓から入れと言われて潜り込みました。私は5人兄弟姉妹の2番めですが、私が一番こき使われたなと思います。今日はそんな夢を見ていました。